バルト海に面して連なるいわゆるバルト3国、エストニア・ラトヴィア・リトアニアとウクライナ・ロシアの5カ国を巡って来ました。

 
とは言っても其々の主要都市1〜2を訪れただけなので、ちょっと覗いて来ただけというのが正直なところです。
 先ずは成田空港からアエロフロートでモスクワのシェレメチェボ空港へ。
 アエロフロートなので飛行機はイリューシンかツポレフかと内心ヒヤヒヤものでしたが、何とボーイング767ではありませんか!
 これには些か驚きました。ボーイング社のセールスマンは凄腕ですネ。脱帽です。

 モスクワ迄ですとアムステルダムやフランクフルトに比べうんと近くに感じます。
 ところが今回のツアーは如何いう事なのか、即トランジットでウクライナのキエフまで一気に行くスケジュールになっていました。そのトランジットの待ち時間が何と4時間!
最初の目的地に行き着く前にかなり草臥れてしまいました。


 
ご他聞にもれず最近の空港のセキュリティーチェックは、ベルトを外し靴を脱ぎと、果たしてこれでテロリストが捉えられるのかどうか首を傾げるやり方でしたが、ちょっと可笑しかったのは、家内の手荷物に小さな瓶やチューブに入った塗り薬などが2〜3有るのを見つけた女性の係員が小さなビニール袋に態々入れてくれた光景でした。

 そんなこんなでホテル到着は現地時間で23:30。朝7時に家を出てから何と22時間半の長旅でした。

 今回の行程中にもう1つトンデモナイことが起こりました。
 それは3日目にリトアニアへ向かう時のことです。
 詳細は後程!
 
先ず最初の訪問地はウクライナのキエフ、人口は300万。現地ではキーフと言うようです。

 其処ここに見える文字はロシア文字に良く似ていますが少し違うようです。言葉は全くロシア語とは違うようで、「アリガトウ」さえ全く覚えられませんでした。

 ウクライナ独立自治正教というキリスト教の一派があるようですがロシア正教と如何違うのか判りません。しかし教会の建物はご存知玉葱型の尖塔が林立、さながら玉葱教会の展示場の体でありました。
 我々は玉葱タマネギと言ってしまいますが、本当はあれは蝋燭を模った物なのだそうです。

 情景は写真をトックリとご覧下さい。

 キエフといえば、ムソルグスキー作曲の展覧会の絵に「キエフの大門」というのが有るのでお馴染みのところなので、きっと大門があるに違いないと思って調べて行きました。
 

 確かにキエフの旧市街に「黄金の門」というのがデーンと建っていました。(11世紀前半に建てられ1240年にモンゴルに破壊されて、1982年に再建されたもの)

 そして現地ガイドのおばちゃんが盛んに「ムソルグスキーはこの門にインスピレーョンを得てキエフの大門を書いた」と何回も言っています。

 しかし私が調べたところでは、ムソルグスキーは友人の画家で建築家でもあったハルトマンが亡くなって、その遺作展に出品されたキエフ市の募集に応募した大門の設計図と完成予想図を観て、あの「キエフノ大門」を終曲とする「展覧会の絵」を作曲したと言うのが定説なのでありました。



 これがハルトマンの大門の絵で「黄金の門」とは全く別物なのです。

 従って現地ガイドのおばちゃんは嘘を言っていることになりますが、何度かこの門の付近をバスが通りましたが、その度にムソルグスキーを連発するので、すっかりそう思い込んでしまっているのを指摘したりするとプライドを傷つけると思って、ソッと添乗員だけに耳打ちしておきました。

 どういう訳かこのハルトマンの大門は結局建設されることなく、ウヤムヤになってしまったということです。
 
 次はバルト3国の1つリトアニアに行くのですが、不思議なことに飛行機はその先のラトヴィアへ飛んで、乗り継ぎでリトアニアへ戻ってくると言う妙な行き方でした。
 
 そして此処でグループ全員のスーツケースが届かないと言うハプニングが起こったのです。

 
ウクライナからラトヴィアのリーガ空港へ、そこから乗り継ぎでリトアニアのヴィリニウスへ到着したところ、何か空港係員の様子が変!態々我々を別室へ案内するのでどうもおかしい?暫くして我々グループ全員のスーツケースが無い!!という事が判明。
 取り敢えずホテルに着いて夕食後、さしあたり必要なものを近くのスーパーに買出しに行く人続出。
 結局翌日判明したのは、乗り継ぎしたリーガの空港で積み込まないまま搭乗機が出発してしまったと言うお粗末でした。
 ホテルに届くのを待っていると何時になるか判らないという事でバスで空港まで取りに行きました。でも有って良かった!間違って別の便になど積み込まれでもしたならどこへ行ってしまうか判ったものではありません。


  
 リトアニアでは、先ずヴィリニュスという内陸の55万都市へ到着。


 入国に際し傷害保険の付保証明書の提出が義務付けられていて、予め証明書を作ってもらっておき提出しましたが、ハテどんな意味があるのかチョッと??でした。治療費が払えないような貧乏人は入国するな!という事なのでしょうか。

 ここではロシア文字は全く見られず、英字のアルファベットと殆ど同じ文字なので何とか読めそうなのですが意味は全くわかりません。

 キリスト教は殆どカトリックだそうで蝋燭屋根の教会は殆どありませんでした。教会はバロック様式で内部装飾は漆喰彫刻で飾られ、とても清楚な感じです。
 聖アンナ教会はレンガ作りのゴシック様式でナポレオンが「持って帰りたい」と言ったとか。

 ヴィリニュス大聖堂前は、1989年の「人間の鎖」の基点になった所だそうです。

 バルト海沿岸は琥珀の産地として有名で、お土産やさんにもアクセサリーが沢山有りますが、ヴィリニュスに琥珀博物館がありました。その看板が「GINTARO MUSEUM」 銀太郎博物館と読めます。ガイドさんに訊いたら、GINTAROはリトアニア語で琥珀のことだそうです。
 イスタンブールで走り廻っていたOTOSANやKARSAN、ルノーのMEGANEなどを見つけた時と同様、私だけが面白がって喜んでいました。

 ヴィリニュスから30kmほどのところに、カルヴェ湖に浮かぶ小島にあるトゥラカイ城という赤レンガの古城が有ります。14世紀後半に砦として建てられた物で、26年掛りの修復が1987年に完了し、今や有名な観光地として人気を集めています。新婚さんの多いこと!!

 次いで第2の都市カウナスへ・・・
 第2次大戦中ヴィリニュスがポーランドに占領されたためにカウナスが首都となっていて、日本の領事館も此処に置かれ、日本のシンドラーと呼ばれる杉原千畝領事代理が、独断でヴィザを発給し6000人のユダヤ人の命を救った、と言う彼の執務室も記念館として保存されていました。

 リトアニアの北部シャウレイという町から10kmほどの何にも無いノッパラに「十字架の丘」が忽然と現れます。村の古い記録によれば1831年にロシアに対し蜂起し処刑された人々のために立てられたのが発端らしく、その後ロシア軍やKGBに薙ぎ倒され焼かれては又その都度夜陰に紛れては立てられ、そして壊され、立てられを繰り返し、遂に今日の姿になったと言わています。大小さまざまな十字架が無秩序に無数に立ち並ぶ光景は何とも異様です。
 しかし今や有名な観光地!新婚さんのグループも記念撮影に続々とやって来ました。

 次はバスで国境を越えラトヴィアのリーガへ・・・
 
 ラトヴィアも文字は英語のアルファベット風のものですが・・・


 リーガはラトヴィアの首都で人口は80万、かつては「バルトのパリ」と呼ばれたものの、ソ連時代に滅茶苦茶にされて「零落した貴婦人」とまで言われたそうですが、復興目覚しく往年のハンザ同盟の繁栄を取り戻しつつあるようです。
 
 ここのキリスト教もプロテスタントとカトリックが主流でロシア正教は少ないようです。

 19世紀後半のいわゆる世紀末芸術の建築様式「ユーゲントシュティール建築群」はウィーンやパリにも劣らないもので、アールヌーボー好きには見逃せない所でしょう。

 ラトヴィアはリーガのみで、バスを飛ばしてバルト3国の一番北の国エストニアへ・・・

  
 エストニアの文字はドイツ語風、首都タリンは40万都市。


 このタリンも13世紀半ばにハンザ同盟に加盟し16世紀まで大いに繁栄したものの、スェーデンに続いてロシア・ソ連の占領で閉塞状態を余儀なくされたようです。

 キリスト教は殆どプロテスタントでロシア正教も若干というところで、アレキサンドルネフスキー聖堂は大きなロシア正教教会ですが、エストニア人の多くはソ連時代のロシアの脅威を感じて快く思っていないという事です。

 午後添乗員が旧市街の散策に案内してくれましたが、後半数百メートルの上り坂で暑さと加齢による消耗で顎を出し、途中でギブアップしタクシーを捕まえてホテルに帰りました。(タクシー代は3倍近くボラレました)

 ロシアに向けてバスを進める途中、国境近くのナルバ城のレストランで昼食、川向こうにはロシアのイワンゴロド城が堅固な城壁をめぐらしナルバ城に対峙していました。
 
 国境を越えてロシアに入りサンクトペテルブルグに向かいます。

 
 19:20に巨大ホテル・プリバルチスカヤに到着

 
 サンクトペテルブルグの中心からは遠く離れた新市街のこのホテルは、前にも泊まった迷子になりそうな大きなホテルで、どうやら日本のツアー客は皆ここに泊めらるようです。

 琥珀の間の修復成って、前回は行っていないエカテリーナ宮殿は今回のツアーの目玉に1つでしたが、ピョートル宮殿にもエルミタージュにも負けない規模と豪華さは流石と思いましたが、お目当ての琥珀の間は物凄い人で、エスカレータか動く歩道状態!!おまけに琥珀の間だけは撮影禁止。ただ通り過ぎただけと言う状態でした。

 ピョートル宮殿は以前はペテロヴァリエツといっていたようですが、今はペテルゴーフと呼ぶようになっています。

 ここは前回よりゆっくりと下の公園を巡り、沢山の趣向を凝らした噴水を観て廻ることが出来ました。

 


 定番のエルミタージュでは、前回ちらりと見えただけで確認できなかったベルニーニのダフネとアポロンのコピーをバッチリ撮ることが出来ました。
 特定の展示室に観衆が集中し、ダヴィンチの聖母などは傍にも寄れない位の人人人でした。
 パビリオンの間の金の孔雀は羽を広げてくれませんでした。(月に1-2回しか動かさないそうです)

 市内観光は結構忙しく、前回のようには巡りませんでしたが、念願のマリインスキー劇場でオペラを観ることが出来ました。残念ながら演目が「蝶々夫人」で、全く日本人が咬んでいないため装置衣装ともNGで、歌手陣がまともなのが救いでしたが、できれば「ボリスゴドノフ」とか「エウゲニーオネーギン」といったロシア物に当たりたかったというのが正直なところです。

 AEROFLOTの機内でもロシアのホテルやレストランでも、紅茶は必ず有りますが、呼び名はEnglishTeaなので、RossianTea(ジャムを入れた紅茶)は無いのか尋ねたら、今のロシア人はそんな飲み方はしないと言われました。戦時下一時期砂糖が入手困難だった頃砂糖の代わりにジャムを入れたという話は聞いたことがあるとロシア人ガイドが言っていました。(ではそのジャムは何を使って甘くした?)
 
 ナポリにはスパゲッティナポリタンは無い、ウィーンにはウィンナコーヒーは無い、ハンブルグにもハンバーグが無いのと同じことかと納得。
 
 サンクトペテルブルグの巨大ホテル3泊の後、なんと早朝5時にホテルを出発モスクワへ・・・



 空港からモスクワ北東150〜250kmあたりに環状に連なる古都「黄金の環」のスーズダリへ直行。セルギエフポサート、ウラジーミル、スーズダリと蝋燭屋根のロシア正教の教会を巡礼し、ロシアの田舎町のゆっくりした時間を満喫しました。

 オバサンたちが道端に店を広げて売っていた胡瓜の漬物は日本の糠漬けに良く似た味で、歩きながらの丸齧りが事の外美味でありました。

 セルギエフポサートという町のセルギエフ大聖堂で粋な計らいに出会いました。
 聖堂敷地内にカメラを持ち込むのにカメラチップ?が500円ほど要るのですが、これを払ったらこの修道院の聖歌隊の賛美歌集のCDを呉れるではありませんか!何とも儲かった良い気分になりました。

 途中マトリョーシュカの工場で絵付けをしたり、ホテルの近所での地方のお祭りのドンちゃん騒ぎを見に行ったり、灰色で小型の嘴細カラスの大群が巣に帰る暮れなずむ夕焼け空を見上げたり、教会の尖塔に掛かる夕陽をゆっくり眺めるなど、得難い時間を過ごすことができました。

 そして最後はモスクワ・・・
 


 さすがにモスクワはでっかい!!見所も一杯!といった感じです。

 ただ残念ながらロシア人気質がそうなのか確かな事ではないものの、どうも触れる人々の多くが「おめえらの国にゃこんなすげえ物はネーだろが、見せてやっからおとなしく見て行け」というような態度に感じられて仕方が無いのです。ホテルの売店のオバサンの口調も、「これ幾ら?」と聞くと「**ルーブルだ!買うのか」というように聴こえてしまうのです。ワンポイントで付いた現地ガイドなど、終始一瞬たりとも笑顔を見せること無く、終わるや否や振り向きもせずさっさと帰ってしまって、当方には不愉快な気分だけを置いていったようなこともありました。

 でも今回モスクワで付いた現地ガイドのお姉さん(マリアさん)は愛嬌こそ無いが可愛かったので救われました。日本語コンテストで優勝してそのご褒美として3ヶ月ほど大阪?に滞在したことがあるそうで、世間話も結構出来る清楚な、感じの良いお姉さん(既婚)でした。
 
 しかしこの辺の事情はかなり変わって来ているようで、空港職員がニッコリ笑みを浮かべたのにも出会い、かえって戸惑ったりしたことも有りましたし、田舎のオバサンなどはもうすっかり他国の人とも馴染んでいるように見受けられました。
 
国家の首脳陣が頭の切り替えさえ出来れば、きっと驚くほど早く観光大国になることでしょう。しかし現在のロシアへの入国は手続き的に難しく、旅行会社の力を借りないと大変だそうです。

 モスクワ最大の観光名所クレムリン。(「クレムリン」というのは城砦のことでモスクワ以外のアチコチの都市にも有る)モスクワのクレムリンは1156年に建設されて以来16世紀には既にほぼ現在の姿になっていたということです。
 政治の中枢「大統領府」や「大統領官邸」「兵器庫」には近づくと怒られますが、教会や聖堂、宮殿が林立していて壮観です。
 「武器庫」は実は宝物館・歴史博物館で、ニコライ1世の時代から博物館なのにどうして名前を変えないのか不思議です。
 クレムリン前が「赤の広場」。「赤の」というのは古いロシア語で「美しい」という意味なのだそうです。
 想像していたよりも広くない。どうやら当方が天安門広場のイメージを重ねていたのかも知れません。
 レーニンだけが特別扱いで廟が広場に張り出しています。向い側がデパートというのは全く平和的で良いではないですか。レーニン廟など取り壊しの話も出たようですが、スターリンの墓碑も其の侭有るし、歴史は歴史として残す方が良いですね。

 今回の旅は「四国のお遍路さん」よろしく、数々の教会を巡る旅でしたが、其々先人に敬意を払い、古いものの良さを認め、以前の侭に修復して後世に残すという、ユネスコの世界遺産の精神を活かす為に多くの国々が努力している姿に触れて、「人類は未だ捨てたものではないナ」と言う感慨を新たにする旅でありました。

 今回の旅のスケッチとして、300枚の写真をスライドショーの形に纏めましたので、ご高覧頂ければ幸甚です。
 クロコ アキラ 敬白
 
ウクライナ
リトアニア
ラトヴィア

エストニア
エカテリーナ宮殿
ペテルゴーフ
サンクトペテルブルグ
黄金の環
モスクワ
Sep.4th,2007  更  新
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