影の形に添う如く

 

令和249日未明に妻 靖が自宅にて老衰のため死去しました。

 

影の形に添う如く59年間共に暮らした伴侶を失い、先に逝かれることは想定外だったので、大いに面食らいました。

「生者必滅会者定離は浮世の習いにて候とは言い条・・」と平家物語にあるように夫婦の縁は格別のようで、不意に襲い来る喪失感と寂寥感を耐え忍んでおります。

しかし一歩引いて冷静に考えてみれば、今どきは90100を数えるご長寿さんが珍しくないご時世ではありますが、熊倉家の中では80歳を超える人がおらず、84歳は最長老のようなのです。

命を縮めるような大病を患ったわけではなく、「老衰」によるものとの医師の診断であり、予め定められた寿命(これを天寿というか)を全うしたと考えられます。1月ほど寝たきりになりましたが、最後は自宅で静かに永い眠りにつきました。

 

元気なころは十数回にわたりヨーロッパを周遊し、国内も北は北海道から南は沖縄まで、折に触れて訪ね歩き、傍から見れば優雅な生涯であったかもしれません。本人も十分に満足してくれていたものと思います。

 

振り返ってみると、我々の人生に大きく影響を与えたと思われる人物、磯山中学校の同級生富田裕氏の存在があります。

在学中から体格も立派で、同級生の中でも傑出して大人びておりました。

ある時数人が私を篭球部の部室に引っ張り込んで、今で言うイジメをしたことがありました。

これが後々富田裕氏自身のトラウマとなったと思われ、罪滅ぼし的な感情か、卒業後から成人になってからもずっと我々の人生に大きく関りを持ち、面倒を見てくれるようになったのです。

当時家内は高校卒業後、那須の「石雲荘」に就職し、その後小さな隠れ家的旅館「八汐荘」にスカウトされ、那須に住んでいました。

その頃富田氏は、東京都文京区本郷で取り込み詐欺すれすれの業態の電器屋「大平産業」を兄大出博氏等を巻き込んで営んでおりました。

 

私と同様、中学2年を終えた年に東京へ移住した古木友子氏と四人で(時には同級の大塚タミ氏を交え五人で)集まり遊んで歩いたりしていました。

その後家内は富田氏に「大平産業」に呼び寄せられ、新宿区落合のアパートで独り暮らしを始めます。

その頃私は西荻窪の東京海上の独身寮に住んでいましたが、これまた富田氏の策謀?により、私が早稲田大学第2商学部を卒業したのを機に昭和365月に結婚することになり、相模原市の公団住宅のテラスハウスの空き家抽選を引き当て移住しました。

ここで長男次男を儲け、昭和41(1966)7月に金沢支店へ転勤を命ぜられるまで5年を過ごしました。

その後昭和45年に新潟県三条市社長を命ぜられ、昭和48年三鷹支社長、昭和51年宇都宮支社長と転勤を重ね、昭和55(1980)に新潟支店業務課長を命ぜられましたが、長男が中学を卒業するのを機に、昭和54年に求めてあった調布市深大寺北町に自宅を新築、家内と長男次男の3人を住わせ私は単身赴任することとなりました。

私の単身赴任中、家内は近所の「地方銀行研修所」の厨房でアルバイトをしながら、子供たちと家を守って頑張り、その時の仲間に「オカアサン」「お母さん」と慕われ、その後広島・山形と別れ別れになってからも交流は続き、家でも家内の呼び名は「お母さん」で通るようになっていました。

昭和58年(1983)に八王子支社長を命ぜられ、新築後4年目にして初めて自宅に入居することが出来ました。

昭和60(1985)1225日に父忠五郎が89歳で自宅で死去しました。

昭和63(1988)6月に東京海上を定年退職し東京銀行の子会社綜合通商(株)に入社、平成2(1990)1月に東京海上の子会社(株)東管に入社、平成10(1998)12月まで8年間在籍し退職しました。その間平成5(1993)321日に母タキの89歳での旅立ちを自宅にて見送りました。

平成24719日妻靖が突如吐血、杏林大学附属病院で「胃がん」という診断で827日胃の4分の3を切除手術し96日に退院しました。

その後間もなく誕生日検診で私にも胃がんが発見され、128日杏林大学病院に入院10日に家内と同じく胃の4分の3を摘出、1221日に退院しました。

やっと落ち着いたのも束の間、翌2013108日深夜2350家内が突然失神、救急車で杏林大学病院へ搬送、クモ膜下出血との診断で緊急手術、201416日野村病院リハビリ課へ転院し430日に退院しましたが、左足に若干のマヒが残り歩行が不自由になり、車椅子を常用することになりました。

要介護3との判定を受けたため、故郷栃木市大平町への転居を決意し、土地を購入して、取り敢えずのアパートへの仮住まいを経て、201583日新居が竣工し転居しました。

その後は週3回のデイサービスや従妹のヘルパーの協力を得て、ほぼ安定した生活を送れていましたが、202031日に発熱(腎炎)し、とちのき病院に入院加療中、徐々に嚥下障害が進行し食事が十分に摂れなくなりました。

 

折しも新型コロナ感染のパンデミックが発生し面会謝絶となったため、やむなく41日に退院し自宅に帰りましたが、徐々に衰弱し49日未明に老衰により静かに息を引き取りました。奇しくも84歳の誕生日でした。

  

車で5分とかからない玉正寺に我々2人だけの墓所を調達し、そこで私を待って貰っているので、供花を欠かさず毎週お参りしています。

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15歳の年に初めて会って以来、70年になんなんとする長い永い付き合いでしたが、既に早くに鬼籍に入ってしまった富田氏古木氏などの友人知己にも支えられ、私の気ままな十数回の海外周遊などにも影の形に添う如くに良く付いて来てくれ、一緒に楽しみを享受できましたので、かなり充実した人生を過ごせたのではないかと思っています。

お互いに口に出して言うことこそ殆ど有りませんでしたが、感謝し合っていたことは疑いの無いところです。そういえば、ある時突然にポツンと「あ・り・が・と」と言われてちょっと驚いたことがあったのを思い出しました。どんなシチュエーションだったか記憶は定かではありませんが、とても静かなさわやかな声音であったことだけは鮮明に覚えています。

 

私は独身時代からクラッシク音楽に傾倒し、カラヤン・ベルリンフィルやらイタリアオペラの来日公演のチケットを清水の舞台から飛び降りるような覚悟で入手したり、給料の殆どをオーディオ装置やLPレコード購入に使い果たし、独身寮でも休日など日がな一日LPをかけっぱなしで聴いていたりして、「南寮のパガニーニ」などと揶揄されていました。結婚してからもサントリーホール・オーチャドホール・芸術劇場と年間約40回以上のコンサート通いを楽しんで居ましたが、このジャンルだけは影は形については来ず、海外旅行中にはウイーンのムジークフェラインザールやコンツェルトハウス、チェコのドヴォルザークホールなど、広場でロココ風の衣装を着た売り子から私の分だけチケットを買って、「行ってらっしゃい」と渡してくれたりしました。

 

ヨーロッパのツアーでは偶々一緒になった東京海上の若い女子社員2人組に教えてもらって訪れた夜のルーブル美術館での鑑賞は得難い経験でした。

美術館と言えばオランジュリー美術館の2フロアーにわたる360度ぐるりと壁一面を取り巻く「睡蓮」のモネの部屋で、真ん中の椅子に掛けてしばし感傷に浸る姿は、文字通り鮮明に「印象」に残っています。

後に四国周遊時に訪れた鳴門の「大塚国際美術館」は全て実物大の陶板で出来たレプリカの集大成で、本物を見て来た方なら懐かしい思い出にドップリ浸れるお勧めの場所です。もう行かれたでしょうか?「大塚」はあの大村崑ちゃんのオロナインの大塚製薬が作ったもので、本物にあらずば美術にあらずなどと言わずに是非訪れて頂きたいと思います。

この四国周遊は、ツーリストの既成のツアーではなく、列車とレンタカーを何度も乗り継いだ、ゆっくり気ままな二人だけの45日の旅を楽しむことができました。途上宇和島で遭遇した「鯛めし」は初めて味わうローカルフードで、独特の風味を堪能しました。

 

本当に長い期間の想い出ですから、あちらを駆け巡りこちらに飛び交いしますが、常に影と形の絡み合いで成り立っているようです。

 

 

   

これまで長い年月、影の形に添う如く付き従ってきてくれた「お母さん」へ、感謝の気持ちを込めたオマージュとして、この想い出の記を捧げます。  合掌

202094日 85歳の誕生日に 

  黒 子  晃

栃木市大平町新1503-25

080-5686-5585

akirakuroko@hotmail.co.jp

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